試合の日の感動、選手との出会い、家族や仲間と過ごしたリンクでの思い出など——
あなたとアイスバックスをつなぐエピソードをご紹介!
2001年3月4日(日)日光霧降アイスアリーナの外で故・高橋健次さん(健さん)と妻と私の3ショット。 この日は第35回日本アイスホッケーリーグ、西武鉄道との8回戦。スコアは5 - 5の引き分け。前日の7回戦は 2 - 1でアイスバックスが勝利。西武鉄道を相手にホーム日光霧降アイスアリーナで大盛りあがりの2連戦でした。 第35回日本アイスホッケーリーグの開幕2連戦(2000年9月30日、10月1日)は東伏見アイスアリーナで西武鉄道を相手に奇跡の2連勝を成し遂げた忘れられないシーズンになりました。
第33回日本アイスホッケーリーグ、古河電工として最後の霧降での試合で、ピリオド間の抽選で当たった選手のサイン色紙です。超満員のホーム最終戦で当たったのはラッキーでしたが、もう古河電工を霧降で見られないことは寂しく受け入れがたくもありました。最終戦は残念ながら王子に敗れましたが、最後のゴールが#51・高橋朋成選手だったことは鮮明に覚えています。今でもこの色紙を見ると当時の選手や試合の熱気が思い浮かびます。ちなみにガルドンのサインは2つあります(笑)。
私が初めて古河電工の試合を観戦したのは小学生の頃です。電工リンクは大人の観戦者が多く、立ち見でも見えず、柱によじ登って観戦した記憶があります。ピリオド間に食べたおでんや、リンクに物が投げ込まれる騒動も印象的でした。当時私はスピードスケート部に所属しており、大橋選手がスケーティングコーチをしてくださったことから大ファンに。いただいたサイン入りスティックは今も宝物です。9月14日の試合で再会し、一緒に写真を撮れたことは一生の思い出です。
初めてアイスバックスを応援したのは、2024年11月の八戸。もともと古橋真来選手を応援していましたが、北海道在住の私は霧降へはなかなか行けませんでした。それでも「近くで応援したい!」という思いから、高校3年生のときに一人で八戸遠征へ。タオルやユニフォームを買い、思い切って声援を送りました。2025年2月の2回目の八戸遠征では、温かいファンの方々と出会い、バックスファンの素晴らしさを実感。そして2025年10月、3回目の八戸遠征では100周年記念復刻ユニフォームを着て応援し、古橋選手のゴールを間近で見られた感動は一生の思い出です。いつか霧降で応援できる日を楽しみにしています!I LOVE BUCKS!!
昨年の全日本選手権を3日間観戦に行きました。地元で優勝🏆(2連覇) 感動をありがとうございました。 土田チームディレクターの計らいで氷上交流会が実施され、選手と写真を撮ることができました。中でも寺尾君は私たちに優勝メダル🏅を掛けてくれて写真撮影、またまた感動でした。バックスの選手は昔から優しいですね。今年も長野に応援に行きます。3連覇して日光で優勝🏆パレードをお願いします。
アジアリーグ開幕の前年、日本アイスホッケーリーグ日光での最終戦延長戦で高橋朋成さんの決勝ゴール。 そのパックをスタンドに投げてくれ、ラッキーな事に取れました。 試合後のリンク内ファン交流会で朋成さんにサインを貰いました。 先日は100周年記念試合で朋成さんとお話ができ、その時の話で盛り上がりました。 バックスの選手は幾つになっても優しいですね。
2018-2019シーズンのファン感謝デーで紅白戦が行われた際、抽選で各チーム3名ずつ監督が募集され、見事当選‼️そのチームに背番号18番古橋選手がおり、会話もできました。次のシーズンのファンクラブ入会時に事務所に行った際も古橋選手がいて「監督」と呼んで覚えてくれていた瞬間にファンになりました。そのシーズンから古橋選手のグッズを購入し、試合も毎試合観戦。古橋選手大好きです😌
BNG(ボール投げゲーム)
毎回挑戦しておりましたが、1度しか当たったことがありません。その1度が「SL大樹ユニフォーム」。僕のボールを拾い上げてくれたのはアイスガールズのMEGさん!!本当にありがとう!!
大津晃介選手と古橋真来選手にサインをしてもらった明峰高校の団扇です。私にアイスホッケーの面白さを教えてくれたのが当時高校生だったこの二人。それ以来ずっと応援しています。晃介選手が昨年日光へ帰って来てくれて、こんなに嬉しいことはありません。私の「日光詣」の回数も格段に増えました。日光大好きです!!
僕の祖父は昔レフェリーをしていました。
カッコいいじぃちゃんです笑
2023年全日本選手権決勝、会場は新横浜。試合前にNHK宇都宮のインタビューを受け、それが放送されました。
アイスガールズですね。会場を華やかに盛り上げてくれています。結成初年度から応援してます。推しは背番号1のSHIHOさん
アイスバックスのファンになったきっかけは、昨シーズン新横浜の試合後、リンクの外で大塚一佐選手と出会い、写真を撮ってもらったことでした。ボストンでホッケー一家に育ち、弟はGKでしたが若くして亡くなりました。私も小さい頃からホッケーを続け、いつかGKをやりたいと思い、4年前にFWから転向しました。上達が遅く悩んでいた時、若干20歳でアジアリーグで活躍する大塚選手のプレーに勇気づけられました。今もGKを続けられるのは彼のおかげで、天国の弟も誇りに思ってくれていると信じています。100周年の年にファンになれたことを嬉しく思い、これからの100年もファンとして支えていきたいです。
2019年9月下旬、脳梗塞を発症し救急車で病院へ。向かう途中に考えたのは「開幕戦に行けるかな?」でした。退院日を決める際、「金曜に退院して土曜に観戦できますか?」と尋ねると、医師は呆れ顔で「軽傷ではなく重症に近い。最低1か月は諦めてください」と言われ、観戦できたのは約1か月後の10月19日。三連戦最終日、発病を知った友人がスタッフに頼み、『リンクで待っています 共に戦いましょう!!』のメッセージと寄せ書き入りジャージを届けてくれました。人目を憚らず泣いたこの思いは、今も変わらず私の支えです。
栃木に越してきたのはバックス創立の1999年。初年度から観戦していましたが、本格的に毎試合行くようになったのは、2010年の福藤選手入団以降です。 当時は各種メディアで試合の映像や写真を振り返ることができませんでした。そこで一念発起し、写真をブログに綴り、自分が観たバックスの選手たちの活躍を残していきました。選手たちの熱いプレイを忘れたくなかったからです。ブログ記事をもとに3冊の自主制作本も出版しました。特に全日本初制覇の記録本は、自分でも良いものを作れたと自負しています。バックス事務局にも寄贈しましたが、まだあるかな?
霧降大橋付近にてえのきどいちろうさんをお見かけし、僕の車に乗っていただきアリーナまで一緒に行ったことも思い出です。えのきどいちろうさんがラジオでお話になっていた事について色々話をしながらの本当に楽しいドライブでした。
女子プロゴルファー福嶋晃子さんのサイン入りメガホンです。
健さん(故・高橋健次さん)とのご縁で度々日光霧降アイスアリーナのホームゲームにも足を運んでいただき、本当に苦しかった時代のアイスバックスを支援してくれました。特に2002年(健さんがお亡くなりになったとき)のNEC軽井沢72ゴルフトーナメントの優勝シーンとインタビューが忘れられません。
日光霧降アイスアリーナのホームゲームでは、多くの方々の記念フェイスオフが行われました。その中でも忘れられないのが、2011年11月17日のHigh1戦での私の妻の記念フェイスオフです。この日のためにオレンジ色の着物を準備して白系の帯と黒のマフラーでバックスカラー(HOME、AWAY、3rd)をコーディネート。リンクの白にオレンジ色の着物姿が映え、とてもきれいでした。素晴らしい思い出になりました。
ありがとうございました。
昨季、小野航平さんがグリッツで惜しまれつつ引退。数年ぶりの霧降名物小野航平コールに涙が出ました。 特に印象的だった試合は、2015-16季の王子イーグルス戦。試合前やファインセーブ時のコールは、我々も一緒にゴールを守っているような一体感を覚えました。両チームの若いGKの対決をゴール裏で観て、TVの録画も何度も観て、ドキドキしたものです。1-0で敗れたものの、小野航平選手と当時ルーキーの小野田拓人選手の両者に拍手…!!GKの重圧と魅力をより近くで感じましたし、現在の推しの一人である大塚一佐選手のことも、ゴール裏で精一杯応援しています。 IB&RE百年おめでと☆
バックスが苦しい時期、会社で署名を集めたり、霧降やイベント会場で募金活動をしたりしました。故・高橋健次さんが命を懸けて守ってくれたバックス。今も健さんは心の中にいます。絶対に潰してはいけないと東奔西走した日々も、今では良い思い出。あの苦しい時代を乗り越え、今はリーグ優勝を狙えるところまで来ました。今年は日光でアイスホッケーが始まって100年。記念すべき年に優勝し、セルジオSDを霧降で胴上げし、健さんに優勝報告をしたい。頑張れ❢ バックス。
頑張ろうぜ❢ バックスファミリーの皆、ファン。
100周年記念マッチデーで息子が着用するため、私が子供の頃に着ていた古いユニフォームを実家へ取りに行きました。 これを着ていたのは、バックス立ち上げの年。ちょうど息子と同じ9歳でした。 沢山のサインが描かれたユニフォームに袖を通した息子は「これはお宝だね!!」と大喜び。なんと、藤澤監督のサインが有ったのです! そして、息子が「僕のユニフォームも、いつか僕の子供にあげたいな。その頃にはお宝になってるね!」と。 息子のユニフォームは#90大塚一佐選手の背番号&サイン入り。 いつか私が孫と試合を観戦できる日を夢見て。 これからも家族一同アイスバックスを応援し続けます!
アイスバックスの地域密着活動『ハピトチ』は、この名称になるずっと前から行われていました。2000年11月、故・高橋健次氏が養護学校の子供たちを試合に招待してくださったのが、我家が25年間バックスと共に歩み始めた最初の一歩です。2005年には、当時発足した選手会によるオレンジバンドキャンペーンがスタート。収益でハンディのある子供たちを試合に招待したり、学校や施設の慰問活動を行うなど、社会貢献に御尽力くださいました。どんなに経営が苦しくても、地域やファンのためにひた向きに努力を続けてこられたアイスバックスさんへ、心から感謝申し上げます。
#18古橋真来選手のファンになって7シーズン目😄 氷上交流会がある時は必ずユニフォームにサインをもらい写真を撮っています。(話が上手なので毎回楽しくさせてもらっています😅)
私が初めて観戦したのは20年前になります。
私が小さい頃に母と兄でアイスバックスの試合を見に行くことが好きでした。それから小学生になりその当時選手だった土田英二さんとエスコートキッズで手を繋いで一緒に滑った思い出です🧡🏒
私のアイスホッケー初観戦は46年前。屋内化されたばかりの電工リンク。きっかけは日光精銅所の工員だった父の誘いだった。相手は宿敵・王子製紙。結果は3対16の大敗だったが、この試合でアイスホッケーの虜になった。実はその頃、父は白血病を患っていたが、試合中はヤジを飛ばすほど元気だった。3年目には病が進行し、4年目に56歳で他界。私は父の遺志を継ぐように、古河電工、そしてアイスバックスを応援し続けている。そしてついにバックスが日光で全日本選手権2連覇を達成。翌日、父の墓前に報告した。「オヤジ、古河強くなったよ。王子を倒して優勝したよ。」
アイスバックスの選手が「NHKのど自慢」に出場?? 2001年6月30日、この日は日曜日の本選生放送に向けた前日土曜日の予選会。 私が獲得した予選会への出場枠をアイスバックスのために使おうと選手を登場させたのがいきさつです。 出場したのはDF#8村井忠寛選手とDF#31内山正浩選手、歌った曲はシャネルズの「ランナウェイ」でした。 残念ながら日曜日の生放送に出場することは叶いませんでしたが、後日NHK BSプレミアムで放送された「NHKのど自慢予選会」では当時のアイスバックスのスポンサー名がちりばめられたユニフォームが放映されるという「歴史的な」シーンになりました。
物心ついたときからずっとアイスバックスを応援しています。親の影響で赤ちゃんの頃から試合を見て育ち、初めての遠征は1歳になる前の北海道でした。 バックスが全日本選手権初優勝したときにセルジオ越後さんと撮っていただいた写真は、今でも宝物です。 そして昨年の全日本選手権優勝を現地で見届けられたことは本当に幸せでした。あの熱気と歓声、選手たちの笑顔は忘れられません。今年の全日本選手権も現地で応援する予定です!! 今も変わらず、これからもずっとアイスバックスを応援します🔥🦌
クラブ創設100周年、おめでとうございます。 数年前、初めて霧降に足を運び、バックスの試合を見た途端、圧倒的なスピード感とその迫力に『とりこ』になりました。 早速メガホンやペンライトを購入して、オレンジタイムなどバックスの熱い応援に参加しています。 中でも一番の思い出は、ファンクラブイベントでの『選手紅白戦』です。 選手の皆さんが使うベンチに入り、臨時監督に就任、最高の気分です。 選手の皆さんたちはとてもフレンドリーで、会話や握手など近くで触れ合える機会に感謝しています。これからもリーグ優勝めざして頑張ってください! GO! BUCKS !GO!
バックス体験会からブルーインズに繋いでいただき、息子が1月からアイスホッケーを始めました。お力添えくださった皆さま、ありがとうございます!写真は8月にゴーリー代理の機会をいただいた時のものです。防具が大きく、普段の練習着では入らなかったため、私のジャージを着せたところピッタリ。応援グッズだったジャージが活躍するなんて、思わずうるっとしました。このジャージは古河電工からバックスへとバトンが繋がった時に作っていただいた名入りの品。息子のプレーでついた傷もまた思い出になりました。これからも親子でホッケーを楽しみ、未来へバトンを繋ぐひとりでありたいと思います。
僕が忘れられない試合は、第92回全日本選手権のレッドイーグルス北海道との決勝戦です。試合時間残り34秒で古橋真来選手が決めたゴールは、技術の高さはもちろん、最後まで諦めなかったバックスファンの応援が生んだゴールだと思います。この試合のように、100年間諦めずに戦ってきたからこそ、今のバックスの素晴らしいプレーがあるのだと感じました。さらに、試合後に早田選手がユニフォームを持っていた僕に気づいて手を振ってくれたことも嬉しく、プレーだけでなく人としても素晴らしいと感じました。
僕がアイスバックスの試合を観戦し始めた頃は、まだチケット販売は手売りで、日光IC近くの日光体育館まで買いに行かなくてはならなかった。 僕の実家が今市だったこともあり、友人数名のチケットを取りまとめて買いに行くと、そこには菱沼さんがいて、いつも優しく対応してくれた。 いつ人が来るかも分からない、来ないかもしれない。そんな中で、あの優しい笑顔は忘れません。御冥福をお祈りします。
2024年3月、息子と宇都宮で餃子とチャーハンをいただいた後、霧降アリーナへ。
日光アイスバックスの最終戦の応援に行ってきました。大逆転勝利に涙!福岡への引っ越しが決まっていた私への送別プレゼント。本当にありがとうございました。
これからも応援します。
忘れられない1995-96シーズン。
その年の古河電工は、1勝もできなかった前年の悪夢を払拭するような躍進を見せてくれた。外国人選手の登録が再開され、FWガルドンとDFマードルが加入。西武鉄道を相手に残り1秒で追いつき延長で勝った試合もあれば、10年以上勝てなかった新王子製紙を破った試合もあった。勝つことの楽しさを知った僕はそれまで以上に夢中で応援した。古河電工は僕にとって故郷・日光の誇りになった。その気持ちは、チームがアイスバックスに変わった今も変わらない。創部100年の今季こそ、念願のアジアリーグ制覇の瞬間を見せてくれると信じている。
アイスバックスの応援は夫婦の楽しみです。夫婦円満の秘訣😆
親しみやすいチーム。皆が応援したくなるチーム。
会場が一体になるのが大好きです。
アイスバックス現役選手・スタッフからのエピソードもご紹介!
僕がアイスバックスに在籍してから7年目のシーズンを過ごしていますが、最も印象深いゴールは2019年の全日本選手権での決勝でのバックハンドゴールです。それまで個人としてもチームとしても状態が良いとは言えない中で、当時監督のAP[アリペッカ・シッキネン(Ari-Pekka Siekkinen)]氏から全日本選手権前にもっとコンディションを上げていかないとダメだと檄が入り全日本選手権は何が何でも結果を出そうと思って臨んだ大会だったのでより嬉しかったかった想いがあります。その大会ではゴールだけではなく、鈴木兄弟が一緒のチームで初めて優勝した大会でもあり印象深い大会となりました。
古河電工のマスコット、『ニッキー』と撮った写真。(右・弟の夕聖)小さい頃から週末の試合が楽しみでした。(写真右)
古河の選手にスティックをもらい、父に自分たちサイズに加工してもらって自宅で遊んでいました。(写真中央上)
交流会で藤澤監督と撮った写真。イケメン選手で有名でした。バックスの選手に憧れていました。(写真中央下)
小学2年生の時、エスコートキッズでバックスの選手と。憧れの選手方と入場し緊張していました。(写真左下)