• 2014.05.15

  • 第1回 日本橋~千住:8.8km

■五街道ウォークに憑かれた男
2014年3月24日午後2時ジャスト、僕は東京都中央区の日本橋上にいた。
「午後2時ジャスト、じゃないでしょう。1時間も遅刻しておいて」
「だ、だって今日までの原稿が書き終わらなかったんだよ。ふ、不可抗力なんだから!」
「不可抗力じゃないですよ。なんだって今から日光街道を歩こうというギリギリまで原稿を書いているようなスケジューリングなんですか、いつも」
うーむ。そう言われると返す言葉もない。
読者を置き去りにして話を始めてしまった。こんにちは。杉江松恋と申します。日光アイスバックスのファンのみなさまには、はじめましてですね。以降どうぞよろしくお願いいたします。
いきなり宣伝で恐縮なのですが、僕は昨年同業の藤田香織さんとの共著で『東海道でしょう!』(幻冬舎文庫)という本を上梓しました。東海道五十三次を徒歩で踏破するという内容で、全行程492kmを約1年半かけて歩き切り、その模様を書いた紀行エッセイです。

http://webmagazine.gentosha.co.jp/tkd53/tokaidoudeshou.html
書評家、ライターなんていう仕事は座業が基本で、とかく無精と決まったもの。一生のうちにそんな距離を自分が歩くなんてことはありえないと思っていたのだけど、実際にやってみたら案外楽しかった。結構歩けるのである、慣れてくると。それで欲が出て、昨年は追加で、東海道四日市宿から伊勢神宮までの70kmもクリアした。さらに遷宮つながりということで出雲大社にも行き、そこから松江までの20km強も歩いてしまった(これらは季刊「レポ」に道中記として紀行しています)。
そうなるとさらに上を目指したくなるもので、とりあえず五街道といわれている道中、日光街道、奥州街道、甲州街道、中山道の残り4つも制覇したくなってきた。そしてただ歩くだけではなく、その模様を文章にして、他の人にも読んでもらいたくなったのである。
「それで連載媒体を探していたら、日光アイスバックスさんがオフシーズンならホームページの場所を貸してもいいよ、と言ってくださったわけ」
ふーん、という顔をしているのはC。大学4年生なのだが、僕の仕事をときどき手伝ってくれている。今日は日本橋から日光街道1番目の宿、千住までの約9kmを一緒に歩いてもらうために呼んだのだ。
「ということは、オフシーズンの間に歩ききらないといけないわけね」
「そう。シーズン開幕は9月だから、それまでの間に140kmを歩ききるよ。ゴールは日光東照宮だな」
アイスバックス・ファンのみなさま、約半年の間ですがどうぞよろしくお願いします。
■どぜうとおもちゃと
というわけで最初は日本橋由来記碑の横で出発記念の写真をパチリ。ここから東野圭吾『麒麟の翼』(講談社)で有名になった日本橋を渡って南に下れば東海道、北東に進めば日光街道の始まりである。五街道はすべて、日本橋を基点としているのだ(奥州街道のみ日光街道の延長)。
nikkou1-1.jpg(日本橋由来記碑にて)
北に上がっていけば三越前である。2014年3月に商業施設COREDO室町2&3がオープンして話題を呼んでいるが、そこにさしかかる前でちょっと横丁にそれる。佃煮の鮒佐日本橋店となっている場所がかつての松尾芭蕉旧宅だ。29歳で伊賀上野から江戸に下ってきた芭蕉は、ここに8年間も住んでいた。これから行く千住宿は芭蕉がおくのほそ道紀行に旅立った地であり、旧宅訪問は欠かせない。句碑があって「発句也松尾桃青宿の春」と刻まれている。しっかりご挨拶をして元来た道に戻った。
nikkou1-2.jpg(松尾芭蕉句碑)
室町三丁目南の信号を東に曲がり、神田川に掛かる浅草橋を渡るまではほぼまっすぐ歩く。途中、ホテルギンモンド前の植え込みに日光街道碑がある……はずなのだが、見つからない。あった、と思ったらそれは単なる門灯なのだった。
「見つからないっすね」
「東海道だと観光の名物になっているから、だいたいの道標はよくわかるように目印があるんだけどな。日光街道はそのへんおくゆかしいね」
見つからないなら見つからないで気にせずずんずん歩いていく。街道歩きの一つのコツがそれで、あまりうろうろして体力を浪費すると、ずんと疲れが溜まってたいへんなことになるのである。
その通りからちょっと北に上がったところに十思公園がある。ここは江戸伝馬町牢屋敷跡で、江戸時代最大の牢獄があった場所だ。平民から武士まですべての身分の者はここに身柄を拘束されることになっており、死刑も執行された。有名な刑死者の一人に吉田松陰がいる。公園の一角に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」という有名な辞世の句碑が建てられている。松陰を主人公にした小説はたくさんあるけど、もっとも有名なものは司馬遼太郎『世に棲む日日』かな(文春文庫。全4巻のうち2巻が松陰の巻で、残り2巻は門弟の高杉晋作が主人公になる)。
nikkou1-3.jpg(松陰終焉の地碑)
「それにしても、公園の中は休憩中の会社員でいっぱいだな」
「吉田松陰がここで殺されたとか、そういう緊張感のかけらもないっすね」
まあ、平日の昼間だから仕方ない。
元の通りをしばらく行くと馬喰横山の繊維問屋街、さらに進むと靖国通りに道はぶつかる。右に曲がっていけば現在の両国橋(昔はもう少し下流にあった)である。両国の川開きの花火大会で有名な橋だ。架空の話ではあるが落語「たがや」の舞台となったのはここ。元の道をまっすぐ進めばその先は浅草橋である。それを渡ったところには浅草見附の碑がある。浅草御門といって、交通上の要衝として江戸時代には警備所が置かれていた場所だ。
ここから江戸通りと呼ばれる道になる。すぐ先は人形問屋が多いJR浅草橋駅で、ここから浅草までの間には玩具会社や問屋が数多く並んでいる。道の左にあるのが、バンダイ本社である。子供のころからお世話になっております。とりあえず、ウルトラマンさんと記念撮影。
nikkou1-4.jpg(バンダイ本社前)
実はバンダイの横丁を挟んで並びに、有名などじょう専門店の駒形どぜうがある。河内一郎『漱石、ジャムを舐める』(新潮文庫)によれば、夏目漱石『彼岸過迄』(新潮文庫他)に「駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋」と出てくるのはこの店のことだそうだ。同書の記述を参考にして書くが、店はもともと浅草寺の本堂前にあった。ところが文化3(1806)年の大火で焼けてしまったため現在の場所に移り、店名も「どぢやう」の四文字では縁起が悪いということで「どぜう」に改めたのである。すっかり「どぜう」が定着しているので、本当は「どぢゃう」が正しいということを知らない人も多いでせう。
nikkou1-5.jpg(駒形どぜう)
■東京で繁華な浅草は
江戸通りを駒形橋西の信号で左斜めに逸れると、つきあたりがその浅草寺雷門前である。ちょうど学校も春休みに入ったばかりということで、人ごみでごった返している。外国人旅行者が多いのはいつも通りだ。
浅草寺境内は街道から逸れているので本当は寄り道になるのだけど、ここで素通りしては後生が悪い。簡単にお参りだけしようと仲見世通りに入った。これをまっすぐ行って境内に入ったところに鳩ポッポ歌碑がある。
「え、どこにあるんですか」
「あるじゃん、そこ。その、女子高生が座ってアイスを食べてる石が」
「あ、あまりにも普通に座っているんでベンチかと思いました」
ベンチじゃない。女子高生の頭越しにカメラを向けさせてもらって、パチリ。
nikkou1-6.jpg(鳩ポッポ歌碑)
「むかし、大学生のころにここに来たときは鳩の餌売りがいたんだよ。今はすっかりいないね」
「というか鳩自体がいなくなってないですか」
そういえば、その通り。見れば建物にも、糞の害があるから鳩に餌をやるな、との貼紙があった。
「建物に影響を与えるから仕方ないですね」
「そうかもしれないけど、浅草寺の名物だったんだよね、鳩の豆売り。ほら、「東京節」にも「鳩ポッポ豆売るおばあさん」という歌詞が出てくるじゃない」
「知りませんよ、そんな歌」
「知らない? エノケンが唄ってたやつ。ラメチャンタラギッチョンチョンでパイノパイノパイ、って」
「知ってるわけないじゃないですか。僕が生まれる何年前の歌ですか。杉江さん、ときどきとんでもなくお爺さんみたいなこと言いますよね」
「まだ、四十代だけどな」
また江戸通りに戻って北東へ向けてまっすぐ歩く。道の右側は隅田公園で、東京大空襲のときに亡くなった戦災者慰霊碑もそこに建っている。
言問橋西の交差点で江戸通りを外れ、北上する道へと曲がる。そのすぐ東に厄除けで有名な病難・盗難の厄除けで有名な待乳山聖天宮があるが、今日は寄っている余裕がない。この寺のすぐ脇で生まれたのが池波正太郎で、本殿入口には生誕碑もあるのである。
北上していくと地名は台東区今戸になる。今戸といえば思いだすのは、庶民的な素焼きの陶器・今戸焼だ。先代・三笑亭可楽(8代)といえば文楽・志ん生の全盛期に、通好みの落語家として名を馳せた落語家だったが、生前はやたらと「今戸焼」という噺を高座にかけていたという(今残っていて視聴できる映像も「今戸焼」だ)。役者に入れあげるおかみさんに亭主がやきもちを焼くという内容で直接今戸焼が出てくるわけではないのだが、「今戸焼の福助」というフレーズはこの噺で覚えた。
この今戸付近には寺がやたらとたくさんある。横山吉男『日光街道歴史ウォーク』(東京新聞出版局)によれば、文人の墓も多く、今話に出した可楽の7代前、つまり初代の可楽はこの今戸の潮江院に眠っている。落語家でいえば初代林家正蔵が同じく慶養寺、役者では初代尾上松緑が広楽寺、作家の宇野信夫が近くの東浅草にある道林寺、などなど。
そのうちの一つだけどうしても行っておきたかったのが……。
「この正法寺なんだけど……」
「お墓とか、外からは見えないっすね」
寺のあった場所はビルになっていて、その1階にお寺は入っていた。中に入れば墓参りができるのかもしれないが、そこまでしている余裕もない。
「ここに誰の墓があるんですか」
「蔦屋重三郎。写楽の浮世絵を出した人だよ」
それだけではなく、今でいうガイドブックの「吉原細見」を出すなどして財をなした、江戸出版界のアイデアマンだったのである。出版不況が騒がれる中、少しでもお知恵にあやかるべく墓参りをしておきたかったのだが。
「しかたないですね。じゃあ、とりあえず寺の前には来たということで証拠写真だけでも」
パチリ。
nikkou1-7.jpg(正法寺)
■源内先生の墓に寄り道
その今戸から少しだけ街道を外れて東側に入った道を歩く。橋場2丁目と番地が変わり、行き止まり近くを左折した横丁に、総泉寺跡がある。お寺自体は現在板橋区に移転しているが、そこに大事な史跡があるのである。
平賀源内の墓だ。
nikkou1-8.jpg(平賀源内墓)
寺跡といっても、小さな祠も建てられており、源内の墓は雨ざらしにはされていない。写真で見ていただくとわかるとおり、掃除も行き届いている感じだった。おそらくは篤志の方が手入れをしてくださっているのではないか。源内といえば南蛮渡来のエレキテルを修復するなど蘭学者や本草学者、冶金学者(石綿を広めた)として有名だが、『風流志道軒』『神霊矢口渡』などの文芸作品も遺している。俗説に土用の丑の日に鰻を食べる風習は厳内が考案して広めたという(他に蜀山人太田南畝説もある)。つまりコピーライターの才能もある、今でいうマルチタレントだったということなのだが、中庸であることが美徳とされた江戸時代にそんな怪物じみた才能はさぞ生きにくかったことだろう。最後は刃傷沙汰を起こして入牢し、獄死したとされている。
源内を主人公に据えた作品で有名なのは、なんといってもNHKドラマ『天下御免』だろう(早坂暁脚本。ノベライズも出ている)。そして井上ひさし『表裏源内蛙合戦』(新潮文庫)であり、最近では夢枕獏『大江戸恐龍伝』(小学館)がある。これは源内が海を渡り、恐龍が生息する秘境を訪ねるという奇想天外な冒険小説だ。ミステリー的な興味もあって、お薦めである(言い忘れたが、私の本業はミステリー書評です)。
ちなみに、この源内墓の横には儒学者・寺門静軒の供養墓がある。著書『江戸繁昌記』(東洋文庫)が風俗紊乱の書であると江戸南町奉行・鳥居耀蔵に判断され、江戸を追放されて地方で生涯を終えた人だ(佐藤雅美がその生涯を『江戸繁昌記 寺門静軒無聊伝』に書いている。講談社文庫)。そういう筆禍の当事者というのもライターとして他人事ではない。こちらの墓にも手を合わせる。
■首切地蔵がたいへんなことに
西へ戻って、泪橋交差点で再び日光街道に合流した。この道中で初めての跨線橋越え、JR常磐線と東京メトロ日比谷線の線路を南千住駅の西でまたぐと、そこから先の住所が千住と変わる。
このへん一帯は、江戸時代小塚原刑場と呼ばれていた。東海道沿いにある鈴ヶ森刑場、中山道沿いの板橋刑場と並ぶ江戸の三大刑場だ。鈴ヶ森では幕府転覆を狙った天一坊、大火を引き起こした八百屋お七などが処刑されたが、この小塚原では鼠小僧次郎吉などの犯罪者や、南部藩士で津軽藩主を襲撃し未遂に終わった相馬大作などの有名人が落命している。それらの墓は千住回向院に立てられており、参観が可能なのだが、このときは時間が遅くて中に入ることができなかった(鼠小僧の墓を削って持っていくと博打の運がつくという俗説があり、やたらと欠かれるというのもここ)。
その代わりに回向院の手前にある延命寺にお参りする。ここは刑死者の菩提を弔うためのお寺で、南無妙法蓮華経のお題目が刻まれた巨大な題目石と石造の地蔵が建てられている。延命地蔵尊、別名首切地蔵といって、3メートルもの高さがある。27個の石を積み上げて作られているのだが、これが現在たいへんなことになっているのだという。
nikkou1-9.jpg(延命地蔵尊)
先の東日本大震災で石の積み上げがずれ、さながらだるま落としのように崩れかけてしまったのだ。写真のとおり一応修復はされているが、さらに手入れが必要だとのこと。寺務所に寄附の呼びかけがしてあったので、声をかけて中に入った。
「あの、二口お願いしたいんですけど」
と言うと、中の女性が一瞬怪訝な顔になり、「あ、寄附ですか。ありがとうございます」と答えた。一見の観光客で寄附を申し出る人間は少ないのだろうか。奉加帳に名前を書いて後にしようとすると、呼び止められた。
「あの、こういうものを差し上げているんですけど、お入用ですか」
差し出したのを見ると、缶バッチである。
要る要る、もちろん要りますとも! お礼を言って頂戴した。わーい、思わぬところで日光街道グッズが手に入った。
表に出て、さっそくCに自慢する。
「見て見てこれ。いいでしょう」
「はあ、そんなものを作っているんですねえ」
「羨ましいだろ」
「いや、まったく羨ましくないっす」
本当は羨ましいくせに。正直じゃないんだから、もう。
Nikkou1-10.jpg(地蔵尊バッチ)
さて、ここまで来ればゴールは間近だ。日光街道はやがて国道4号線に合流して右折する。その交差点を渡ったところにあるのが素盞雄(スサノオ)神社である。素盞雄大神と飛鳥大神(事代大神)を祭神とする神社だ。スサノオは牛頭天王と習合し、しばしば病除けの神様として祀られる。ここも例外ではなく、厄除けの絵馬を奉納する慣わしがあるのだった。ちょうど雛祭りの終わった後でもあり、境内には無数の雛人形が飾られていたが、これは桃祭りのためのものだ。桃は黄泉国に言ったイザナギミコトがかの地の災厄を避けるために使ったことからもわかるように厄除けの霊木とされており、その祭儀が毎年春に行われるのである。
nikkou1-11.jpg(雛人形)
この境内には松尾芭蕉がおくのほそ道行の旅立ちに際して詠んだ「行くはるや鳥啼魚の目にはなみだ」の句碑も建立されている。
■かくして日光街道第1の宿へ
国道4号線はやがて千住大橋で隅田川を越える。元禄3(1689)年、深川に住まいしていた芭蕉は船で北上し、この千住大橋付近に上陸した。そこから全行程2400kmに及ぶ、おくのほそ道行が始まったのである。
橋のたもとにある大橋公園にはその全行程を記した地図が掲げられていた。
「これは杉江さんも歩くしかないでしょう、2400km」
「東海道何回分だよ、それ」
「仕事を完全に休まないと無理っすね」
「失業するな、歩いているあいだに」
しかし、いつかはすべてを歩いてみたいものである。
足立市場の信号で4号線を渡ると、四間幅ほどの生活道になる。東海道で見慣れた、街道サイズの道幅だ。ようやくらしくなってきた。その道の右側には、千住宿の入口であることを示す碑と、なんと芭蕉翁の石像が。
もちろん記念撮影である。
nikkou1-12.jpg(芭蕉像と)
大高利一郎『日光街道をあるく』(創英社/三省堂書店)を参考に書くと、「千住」という地名の由来は千手観音像からという説や、足利義政妻の千寿からきたという説などさまざまであるらしい。江戸時代には各街道の初宿が「四宿」と呼ばれ、歓楽地としても賑わった。つまり東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿と、この日光街道の千住宿だ。小説では宮部みゆき「師走の客」(『かまいたち』所収。宮部は現代小説の『秘密』などの作品でこの近辺を舞台にしている。ともに新潮文庫)、池波正太郎『秘密』(新潮文庫)などの作品が往時の千住宿を描いていて印象的だ。
落語でいえば「今戸の狐」に、千住宿勤めから上がって結婚した女性が「千住の妻」と呼ばれて出てくる。これは「センジュのサイ」ではなくて「コツのサイ」と読むのである。千住をコツと読むのは小塚原刑場があったことからの連想だろうか。先代の林家正蔵(後に名跡を返上して彦六)が得意とした因縁噺「藁人形」の舞台もこの千住である。
道碑の横は中央卸市場足立市場で、このへんでは日光街道はヤッチャバ通りと呼ばれている。ヤッチャバとは市の別称で、威勢のいい商人のかけ声から来た言葉だ。それを歩いていくと、街並みのところどころに宿場であったころを偲ばせる風情があるが、やがて駅前通りの賑やかさにとって変わられる。千住二丁目の交差点にたどりついたら、そこが今日の終点だ。歩数計を見ると、9kmの行程のはずが14km近くは歩いていた。
「あちこち寄り道したからね」
「おつかれさまでした。疲れたけど、楽しかったですね」
「またよかったら歩きにおいで、と言ってもCは4月から就職か」
「そうです。というか、杉江さん、どうするんですか、この後。藤田香織さんに一緒に日光街道を歩こうよ、って言って断られたんでしょ」
「もう歩くのは嫌だって言われた」
「困るじゃないですか。今回は僕がいたから杉江さんも入れて写真が撮れましたけど、次回からは一人でしょ」
「いや、ゲストが来てくれる日もあると思う」
「毎回じゃないわけでしょ。一人のときはどうするの」
「ふふふ。そういうときのために名刺を作ってもらったのだよ」
じゃーん。
「なんですか、これ。名刺?」
「そう。日光アイスバックスの企画で歩いているのであって不審者じゃありませんという証拠に作ってもらったの。これを播きながら歩こうと思ってさ。写真を撮ってもらうときも、これを渡して頼めば怪しまれないじゃん」
「じゃあ、さっきの浅草寺でも女子高生に頼んで撮ってもらえばよかったのに」
「じょ、女子高生はおじさん少々ハードルが高いなあ」
そんなわけなので、道々名刺を持参していきます。もし歩き疲れて弱った中年から声をかけられたら、写真撮影など助けていただけますと幸いです。
「というわけで、今日はこれでおしまい。お疲れ様でした」
「お疲れっす。じゃあ、どこかでごはんでも食べていきますか」
「そうするか。このあと、別に予定とかないんでしょ?」
「あ、実は僕」
「何?」
「今日が大学の卒業式だったんですよ」
「えええええ! いいわけ、行かなくて」
「ええ、卒業証書なんて教務課に行けばもらえますから。今はけっこうそういう人多いですよ」
「マジか……」
それにしても同期の友人と名残を惜しむとか、そういうイベントはいいのか。大丈夫か、C。制服の第2ボタンをあげるとかそういうのは無いのか。あ、制服じゃないか。
(つづく)