• 2014.06.6

  • 第2回 千住~草加:9.5km、草加~越谷:7.2km

■いきなり大遅刻
途中で一回目が覚めて、あー、なんかおなかが痛いような気がするなー、と思った記憶はあるのだ。
眠気には勝てず、もぞもぞっとそのまま寝てしまった。
そうしたら効果はてきめん、起きたらおなかを壊していたのである。いたたたた。とてもではないが外出の支度どころではなくなり、床にへたりこむのとトイレに駆け込む、二つの動作を延々と繰り返すことになってしまった。
気が付いたら、時刻は午前八時を回っていた。
えのきどいちろうさんと北千住駅前で合流しているはずの時刻である。
うわーん、えのきどさん、すみません。
そもそもこの連載は、えのきどさんに仲介していただいたものなのである。えのきどさんは、ライター仲間の北尾トロさんと一緒にレポTVというネット配信の番組を毎週火曜日に生放送でやっている。そこに昨年の暮れにゲストで呼んでもらった際、僕は図々しく「えのきどさん、日光アイスバックスのホームページで日光街道を歩く連載をやらせてください」とお願いしてしまったのである。生放送だし、えのきどさんも「えー、そんなのダメだよ」とは言いにくいだろう、とちょっとずる賢く計算してみたのであった。
しかしさすがベテランえのきど、いきなりやって来て何言ってんだおまえは、と動揺する表情など一切見せることはなく、「いいですよ」と一発回答。しかも単なるリップサービスではなくてすぐに日光アイスバックスに連絡をとって、担当の方との中継ぎまでしてくださったのであった。有言実行とはまさしくこのことだ。
――というような経緯があった恩人を、いくらおなかが痛いからと言って待ちぼうけを食わせているわけである。大慌てで携帯のアドレスにメールを打った。すると立て続けにえのきどさんから返信が「大丈夫? なんなら中止にしても」「こちらは快適な場所で待っているのでご心配なく」「今日は無理せず、途中で切り上げることも視野に入れよう」などなどと飛んでくる。も、も、申し訳ないです。今すぐ行きます。ものすごくおなかは痛いけど!
というわけで、2013年5月18日午前10時ジャスト。私は東京都荒川区の北千住駅前にいた。
「いや、本当に大丈夫なの。おなかは」
「はあ、寝ている間に布団を蹴って冷やしてしまったみたいです。今、強力な薬を飲んだのでなんとかいけると思います」
駅前のデニーズで2時間近くも待っていてくださったえのきどさんに平身低頭で詫びを入れ、なんとかスタート地点に立つことができた。本日の行程は北千住宿から越谷宿までの約17kmである。距離は長いが平坦な道が続き、それほど辛いところはない。しかも見るべき名所旧跡も多く、街道歩きのコースとしては上の上の部類なのだ。ただし、後に述べる理由のため、あまり時間の余裕はないのであった。私が大遅刻をしてしまったばかりに申し訳ない。
「まあまあ、それを言っていてもしかたないでしょう」
すみません。
後の写真でも出てくるが、えのきどさんは私と同じLekiのノルディックポールを持参していた。今年から生活習慣を変え、積極的にウォーキングをしているのだという。日光街道歩きの第2回は、こうして頼もしいパートナーを迎えて始まったのであった。
■千住宿で初のアイスバックス名刺
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前回のゴールになった千住二丁目交差点から線路と並行に、北へ向かって歩いていく。道を渡ってすぐ左が、かつての本陣跡だ。北千住はJRやさまざまな私鉄が乗り入れているターミナル駅であるが、線路と並行に走っているこの商店街には、あまり外向きの雰囲気はなく、生活必需品を売るごく普通の小売店舗のほうが多い。煮込みで有名な居酒屋、大はしもこの通り沿いだ。千住宿場町通りと命名されており、高札場跡なども保存されている。道の左側にある吉田家は、東京で唯一の泥絵具を使った絵馬屋だということだ。
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道の右側に、「千住宿場町通りお休み処」と看板を掲げた家があったので、入っていって挨拶をする。前回は同行のCに見せるだけで出番のなかった日光アイスバックス名刺の出番である。観光客の応対をしておられた女性に、えのきどさんと写真を撮ってもらった。しきりに恐縮されるのを無理にお願いし、一緒に写っていただく。
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この街道ウォーク初の、地元の方との記念撮影だ。
一軒のお菓子屋を指し、よくここで買います、というえのきどさん。
「このへんは家からも近いし、この道はよく歩くんだけど、史跡という目で見たことはなかったなあ」
さらに歩いて行くと商店風の建物は途切れ、一気に住宅街っぽくなる。信号を越えた先にあるのが、名倉医院だ。名倉堂といえば接骨・整骨院の代名詞だが、その大元はここである。名倉氏は17世紀の末ぐらいから千住に移り住み、明和年間(1764~1772年)に現在の場所で開業した。骨接ぎとしてその名は広く知られ、患者は千住の宿屋に泊まりこんでここに通ったという。現在も整形外科及びリハビリテーション科の医院として存続している。当日は日曜日だったので門戸は閉ざされていたが、駐車場から接近して外観のみ写真を撮らせてもらう。
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道はそのまま左にカーブして国道4号に合流、千住新橋で荒川を渡る。このへんにキャンディーズのスーちゃん(故・田中好子さん)のご実家があって、釣具店をやっているんだよ、というのはえのきどさん情報である。橋を渡るとき、右前方に東京拘置所が見えた。あそこにはなるべく入ることなく世渡りをしていこう、と心に固く誓う。
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川を渡ると東京都足立区である。荒川に沿って左に曲がり、しばらく歩く。あ、ちょっと来すぎたかな、と思うあたりに善立寺という大きな寺院があるのだが、そこが日光街道に入る曲がり角だ。この荒川は大正年間に通水した人工河川なので、江戸時代には今渡って来た場所も普通の道だった。したがってそのころは、名倉医院の位置からこの善立寺まで街道が延びていたことになる。日光街道の特色の一つとして、江戸時代と現在とでは川と街道との位置関係が大きく変化している場所が多いことが挙げられる。関東平野の穀倉地帯を北上する街道だから、それもやむなしなのだ。
角を曲がって右に入ると、そこはごくごく普通の生活道路である。
えのきどさんが感心したように言う。
「松恋さんと一緒に来なかったら、ここが日光街道の入口だとはわからなかっただろうね」
「東海道だと観光地化が進んでいるんで、ありとあらゆる道の曲がり角には旧街道であることを示す標識が立っているんですけど、日光街道はそこまで整備されていないみたいです」
「ここに暮らしている人は自分が日光街道に面したところに済んでいるとは思ってないだろうね」
「小学校とかで習わない限り、大人になってから引っ越してきた人とかは知らないままでしょう」
話している二人を、日光街道で暮らしているとは夢にも思わない顔の住民が自転車に乗って追い越していく。
少し行ったところに、子育八彦尊道と書かれた石標と石不動の祠があった。地元の人に大事にされているらしく、小綺麗に保たれた祠である。
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ここで陽射しが強くなり始めた。自動販売機でお茶のペットボトルを買い、ズボンの後ろポケットにつっこんで、いつでも飲めるような態勢をこしらえた。
「なにしろ汚い話ですけど、僕は朝からずっと水分を失い続けてましたから」
しかし、いつの間にか腹具合は収まっていた。
■島根すまなんだ事件
街道は北へまっすぐ伸びていく。代わり映えはしないが、迷うことだけはないので安心できる道である。途中で北千住方面からやって来た東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の下をくぐる。梅島駅である。その手前の、Y字路になったところに道標がある。道を渡るのが面倒くさかったので写真は撮らなかったが、非常に小さい。道路の舗装面からは30 cmくらいしか突き出していないくらいなのだ。車に敷地を踏まれない用心のために住人が置く石と見分けがつかないほどである。
さらに進んでいくと、しきりに鷲神社という名前の看板が目につくようになった。交通安全の祈願などで、土地の人には大事にされているらしい。それはいいのだが、その看板に「島根 鷲神社」とある。
「やはり出雲国起源の神様を祀ってあるのかな」
「それにしても「島根」というのは変ですよね。なんで旧国名じゃないのか。その伝でいくと、伊勢神宮だって「三重」でいいことになっちゃう」
「俺達は島根だぞ、というこだわりのようなものを感じるね」
などと話しながら歩いていたのだが、後でたいへんな勘違いに気づいた。やがて見えてきた信号の標識に「島根」と書かれていたのである。
「出雲じゃなくて足立区島根だったのか!」
「旧国名じゃないのが変だ、なんて言って申し訳ないことをしました」
「ごめんなさい島根、許してください島根だね」
なにしろ歩いていると暇なので、標識や看板がやたらと目に付く。この島根問題も何kmかの間、えのきどさんとの間の恰好の暇つぶしになったのであった(あとでわかったが、足立区島根はビートたけしの地元である)。
島根問題が解決する少し前、その島根の交差点を渡る手前の左側に、一対の石碑が建てられていた。「南無妙法蓮華経」の髭題目が躍っているところから見ると、日蓮宗である。寺名が「国家安穏寺」とある。
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「これはまた大きく出たねえ」
「あ、ガイドブックで読んだので知ってます。これはちゃんと謂われがあるんですよ」
今回の街道歩きのアンチョコとして使っている大高利一郎『日光街道をあるく』(創英社/三省堂書店)によれば、かつて徳川三代将軍家光を暗殺する計画(俗に言う宇都宮釣天井事件)があったとき、その危険を予言したのがこの寺の住職なのである。
「なるほど、その功績で国家安穏寺と名乗ることを許されたと」
「今で言えば「警視総監賞寺」みたいなものなのではないでしょうか」
いや、それはちょっと違うだろう、と自分で言っていて思った。
あらぬ疑いをかけてごめん、の島根地区を過ぎると、地名は竹ノ塚に変わる。いよいよ東京都の北端である。歩きながらえのきどさんが道の前方を指さした。
「おっ。初草加ですよ」
見ればそこには、「草加せんべい」の看板をかかげた店が。足立区竹ノ塚の北側は埼玉県草加市なのである。言わずと知れたせんべいの名産地だ。それが県境を越えて東京都内にも進出してきていた。
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「おそらくこれが草加せんべいの南限でしょうね」
とえのきどさんはうなずく。いよいよこの日光街道ウォークも、黎明の東京編から怒涛の埼玉編へと突入しようとしていたのであった。
■行けども行けども草加せんべい
……と身構える暇もなく、われわれはあっけなく埼玉に足を踏み入れてしまった。東京都と埼玉県の境界を流れる毛長川は、小川に毛の生えたようなささやかな流れだったのである。
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思えば東海道を歩いたときは、川を渡るたびに感慨に耽ったものであった。かつての東海道は、首都防衛上の理由から川に架橋が許されないところが多かった。結構な大河川が多いのに、旅客は舟や人足の力を借りて渡河しなければならなかったのである。それと比べれば、この毛長川はひとまたぎもいいところだ、
川を渡り、最初の信号を渡ったところでわれわれは再び草加せんべいの看板に遭遇した。しかしその店はすでに廃業済みのようであった。したがって草加市内最南端の草加せんべいの称号は、次に発見した「石鍋商店」に与えられるべきなのである。日曜日だからか、そのときは店のシャッターは下りていたのだが、後で営業はしていることも確認した。
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それを過ぎたところに浅間神社があり、さらにその先に火あぶり地蔵がある。ずいぶん物騒な名前のお地蔵さんだが、これには訳がある。昔、奉公に来ていた娘が主家に放火した咎で火刑に処されたという伝説があるのだ。実家の母親が病気になり、会いたい一心で家に火を放ってしまった。奉公する家がなくなれば、帰れると思ったからだろう。
「少し前に、旅行会社の社員が予約を忘れて、学校に脅迫メールを出した事件があったね」
「それは単なる馬鹿ですが、こっちの娘のほうはお母さんが病気という事情があったわけですから。同情はしますけど、やり方がまずかったですねえ」
言いながら、地蔵堂に手を合わせる。
そのへんからやたらと草加せんべいの店が多くなってきた。ちょっと歩くと草加せんべいの店にぶつかる。二人して草加せんべいの山を踏み越えながら歩かねばならないほどである(嘘だけど)。しかも片手間にやっているのではなく、俺は草加せんべいで食っていくぞ、という気概に満ちた店構えのところばかりである。
「そういえば僕は、ちゃんとした草加せんべいというものを買ったことがないかもしれません」
「どれ、歩きながら食べてみますか」
目についた一軒の店に入った。店の奥から出てきた女性に、えのきどさんが「せんべいの一枚売りはやってますか」と聞く。
「本当はやってないんだけど、お出ししますね」
と言いながら、女性はせんべいの入ったガラス製の壺の蓋を開けてくれた。1枚50円である。それを食べながら(うまかった。男性には揚げせんべいが一番人気なのだとか)、いろいろとお話をうかがう。
「ずっと気になってたんだけど」と、えのきどさん。「割れせんべいのことを久助って言いますよね。あれ、なぜなんですか」
「二つ説があるんですよ。一つは、不真面目な職人さんがいて、満足にせんべいを焼かない、それが久助さんという名前だったと」
「名前説ですね」
「もう一つは、完全な状態を十とすると、これはそれから少し欠けている。だから九なんだという」
「数字説。なるほど両説あるわけか」
「お好きなほうを取っていただければ、という感じですかね」
そこは池澤商店という店名で、女性によれば草加せんべい屋の中でも新参の部類なのだとか。戦後にこの地にやって来たというので、他の老舗に比べれば新しいそうなのである。せっかくなので名刺をお渡しし、池澤商店のお名前が入ったところで写真を撮らせてください、とお願いしたのだが、いえいえ、うちの名前よりも草加せんべいの名前とおせんべいを写してあげてください、と女性は遠慮された。というわけでこの写真なのである。
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日光街道はやがて左にそれ、草加駅の鼻先をかすめるようにして続いていく。その駅前にも草加せんべい史上見落とせない観光スポットがあるのだ。
おせんさんの像だ。
おせんさんとは草加せんべいの産みの親と言われている人物で、草加松原の地で茶店を出していたという。だんごは日持ちがしないので売れ残ると捨ててしまっていたが、茶店の客から、だんごを平たくして火で焼いたらどうか、と助言をもらった。それを容れて製造したのが、草加せんべいの元になったのである。だから草加の人はせんべいの「せん」はおせんさんの「せん」だと言う。
「あ、これですかね」
池澤商店で聞いた「駅前にベンチのようなものがあり、それにおせんさんが座っているが、地元の人は誰も気にせずやり過ごしている」という情報を元に探したところ、たしかにそれらしい像があった。
「しかしこれ」
「おせんさんというか、おせんちゃんですね……」
どう考えてもその女性がせんべいを考案したとは思えない。だってそこにあったのは、年端も行かない少女の像だったのだから。しかもおせんさんの像はせんべいを焼いている、というもう一つの情報にも合致しなかった。
「この子、おせんべいを食べてますね」
後でそれは、駅東口アコス広場のシンボルである「アコちゃん」の像だと判明した。
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おせんさんの像は、その近くにあった。文献によっては「おせん婆さん」などと呼ばれる場合もあるし、伝承では江戸時代の人ということなのだが、その像は明らかに近代以降の人のものであり、またどう見ても五十代よりは手前という感じであった。これは作り手の独自解釈ということなのだろうか(作者は市内在住の芸術家・麦倉忠彦。「アコちゃん」も彼の作品)。
なにはともあれ草加に経緯を表し、おせんさんと記念撮影である。
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■芭蕉一門の結束にひびが……。
駅前から再び国道4号に合流するまでが宿場の中心だったあたりである。建物自体はすっかり跡形もないが本陣跡を示す碑や、道路元標などがこのへんに集まっている。この道路元標には「千住町へ2里17町53間3尺、越谷へ1里33町30間3尺」とやたらと細かく隣町までの距離が記されているのである。3尺まで本当に要るのか。
それを通り過ぎてしばらく行ったところで、とんでもないものを発見した。
宙に浮く草加せんべいである。
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「えのきどさん、これは……」
「これは取材するしかないよ。これこそ草加せんべいで勝負する、という覚悟の極みのようなものなんだから」
うなずきあってその店、堀井商店に入っていった。
応対してくださったおかみさんによれば、材質はプラスチックのようなもので表面を覆っているとかで、台風のときにはずいぶん揺れるのだという。
「見てくださったのは嬉しいんですけど、うちがオリジナルじゃないんです。別のお店でそういう看板を出しているところがあって、同じ業者さんにお願いしたんですよ」
いえいえ奥さん。オリジナルじゃなくても、この覚悟の看板を出したこと自体にとても意義があると思います。
堀井商店では商品開発に余念がなく、シルクスクリーンのような技術を使ってせんべいの上にメッセージをつける試みもしているのだという。
「一つひとつ、字をこしらえているんですよ」
「おお、せんべいの活版印刷ですね」
近くに行かれた際は、ぜひお立ち寄りを。
そのいくつか置いた先が、お休み処神明庵である。三人の女性がいて、お茶を出してくれた。みなさんはボランティアなのだそうである。2014年2月には加山雄三がテレビ番組「若大将のゆうゆう散歩」でこの地を訪れたとかで、そのビデオが流されている。それを観ながらお茶をいただき、綺麗なトイレを使わせてもらって一息つく。2階はギャラリースペースになっていて、このときは松尾芭蕉の奥の細道行の特集が組まれていた。名刺をお渡しし、日本橋から日光まで歩く試みをしているんです、と打ち明けるとしばらくそれで話に花が咲いたのである。ここでも記念撮影。親切にしていただき、ありがとうございました。
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やがて道は国道4号に再合流する。その合流点の左側がおせんさんを記念して作ったおせん公園、道を挟んで反対側に松尾芭蕉の弟子、河合曾良の像が立っているのである。なぜか師と二人ではなく、一人で取り残された曾良は追いすがるような恰好で手を上げている。単独の銅像にしてはおかしいな、と思ったがすぐ謎は解けた。国道4号を渡ったところにある札場河岸公園に芭蕉の像もあるのである。師弟の距離、およそ100mというところか。芭蕉が振り向いて見ている先には、たしかに曾良の像があった。
「しかし、こんなに遠く引き離さなくてもいいんじゃないですかね」
「遅いからお前なんか置いてくぞ、って言ってるみたいだよね」
せっかくだから、松尾芭蕉の像とも写真を撮ってもらった。旅ライターの大先輩である。到底足元にも及ばないのだが、足元に立ってみた。
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この公園から越谷市との境界までの約1.5kmにわたり、綾瀬川のほとりに松並木が植えられた遊歩道が続いている。決して厭味にならない程度に景観も整備され、心置きなく散歩が楽しめるのである。川の流れを横にしながら歩いていくのは実に気分のいいものだ。
「えのきどさん、綺麗な道ですね。東海道492kmを歩いた経験から言わせてもらいますけど、こんな綺麗な場所というのは街道歩きでもめったにありませんよ」
「本当ですか。もしかすると僕、この日光街道ウォークの中でも、相当上位に来るぐらいいいコースを歩かせてもらってませんか?」
「日光の杉並木とかももちろんありますけど、たぶんそうなんじゃないかと思います。たぶん僕は、後で言いますね。日光街道のベスト3には、草加の松並木が絶対入るって」
まだ二つ目の宿場を歩いただけなのに気が早いとお思いかもしれないが、そのくらい気持ちがよかったのである。この松並木公園をきちんと整備している草加市は実に偉いと思います。
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余談ながら、この松並木の途中で見えてくるのが松原団地である。東武線の駅名にもなっているので見慣れた地名だったが、今回初めてそれが草加松原からとったものだったのだと気が付いた。松原団地といえば、作家後藤明生が住んでいたことでも有名だ。団地生活者を描いた『何?』など、後藤がこの地を舞台にして書いた作品は多い。
■越谷を代表してあの人が登場
やがて松並木は途絶え、埼玉県2つ目のまちである越谷市に入った。そこで蒲生大橋を渡ると、綾瀬川の対岸に蒲生の一里塚がある。日光街道沿いでは、埼玉県で唯一残る一里塚なのだそうだ。近くまで行ってみると、地元住民の集会所としても利用されているらしく、ラジオ体操の案内が掲示してあった。
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そこからはもう一度国道4号に戻る(写真は、気持ちいい道の歩き収めとばかりに川岸を行くえのきどいちろうさん)。
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あとは延々と歩くのみである。時間は午後2時をまわっていた。一日の中でいちばん陽射しがきつい時間帯である。いつの街道歩きであっても魔の刻となるのはいつも午後のこの時間である。言葉数少なく、二人で黙々と歩く。また、さっきまでの緑多い道とは対照的に、いかにも産業道路というような交通量の多い道なのである。
途中でえのきどさんが、ちょっと珍しいものを発見した。久伊豆神社の分社である。この文字を見て当たり前のように「ひさいずじんじゃ」と読める人は、おそらく埼玉県人だろう。人によっては「くいずじんじゃ」と読んでしまうはずである。
「クイズの聖地、ということで大学のクイズ研からの信仰を集めているそうです」
とえのきどさん。
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とにかく脇目もふらずに歩き続ける。実は日光街道ウォークをこの日にしたのには理由があった。栃木県栃木市で開催されている蔵のまち映画際のクロージングイベントとして、夕方からえのきどさんと元日光アイスバックス主将で現・日光市議の瀬高哲雄さん、そして私による鼎談が予定されていたのだ。テーマは日光街道ウォークなので、えのきどさんにも参加してもらい、実際に1日分の距離を歩いた上でトークに臨もうという相談ができていたのである。私が大遅刻してしまったものだから、栃木市に間に合うように着くための余裕がほとんどなくなっていた。遅れを取り戻すためには、ひたすら歩くしかない。
やがて道はY字路にさしかかる。その右側にあるのが照蓮院である。ここには武田勝頼の遺児、千徳丸の供養塔がある。ご存じのとおり武田氏は織田信長によって滅ぼされたが、まだ幼かった千徳丸は家臣の秋山長慶に連れられて越谷へと落ち延びた。だが、運がそこで尽きたのか、元服を待たずにこの地で没してしまったのである。長慶は照蓮院の住職になり、主君の菩提を弔ったという。
境内に入って捜してみたのだが、千徳丸の供養塔は見つからない。寺の人に教えてもらってようやく発見できたのは、ごくごく小さなものであった。幼子とはいえ、世が世なら武田の嫡流にあたる少年がこのような形で葬られたというのは非常に哀れなことである。冥福を祈り、手を合わせた。
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これにて今回の街道ウォークは終わり、ゴールである越谷駅へと向かった。その駅前で、嬉しい出会いがあったのである。
「おつかれさまです。これ差し入れです」
われわれを出迎えながら、汗拭き用のデオドラントペーパーを渡してくださったのは、作家の越谷オサムさんであった。映画にもなった『陽だまりの彼女』をはじめ、数々のヒット作を世に送りだしている当代の人気作家の一人だ。子供のころからずっとこの地に住んでいるという、生粋の越谷市民で、筆名もそこから採っている。
実はtwitterで今回の日光街道ウォーク第二弾について発表したとき、私は「ゴールは越谷だからきっと越谷オサムさんがおにぎりを持って待っていてくださるに違いない」と書いていたのである。もちろん冗談のつもりだったが、なんと越谷さんは「じゃ行きますよ」と本当に応じてくださった。お忙しい作家に変な気を遣わせてたいへん申し訳ないことである。しかも今回は2時間も私のせいで出発が遅れてしまった。出発時間が押してえのきどさんを待たせてしまったばかりではなく、ゴールで待っていてくださった越谷さんまでご迷惑をかけてしまったことになる。たいへん心苦しいので、ここはもう開き直ってさらに心苦しいお願いをしてしまおうと思った。
「越谷さん」
「はい?」
ちなみに越谷さんとは、私もえのきどさんも初対面である。
「この次の日光街道ウォーク、越谷がスタート地点なんですけど、一緒に歩いてもらえませんか」
「わかりました」
えええええ、いいんですか?
「ええ、僕でよければ、ぜひ」
この瞬間、次回の日光街道ウォークのゲストは決定した。言ってみるもんだなあ。
最後に3人で記念撮影。「3割うまい」がキャッチフレーズの埼玉発チェーン「ぎょうざの満州」のロゴが眩しいです。越谷さん、次回はよろしくお願いします。
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本日の歩数、約28,000歩。18kmを歩きました。
(つづく)