• 2014.06.26

  • 第3回 越谷~粕壁:11.5km、粕壁~杉戸:6.5km

■今回のゲストは越谷オサムさんと香山二三郎さん
2014年5月28日午前7時。私は東武スカイツリー線の越谷駅にいた。約束時間にぴったり。さすがに3回続けて遅刻はしないのである。
「そりゃまあ、当たり前の話だよね」
と横からつっこみを入れてきたのは、コラムニストの香山二三郎さん。『東海道でしょう!』(幻冬舎文庫)でも酔狂な東海道ウォークに大部分参加してくださった、杉江の先輩ライターだ。今回、日光街道ウォーク第三回の告知をしたら、急遽参戦してくださったのである。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
もう一人、リュックサックを背に万全の態勢で待っていてくださったのは作家の越谷オサムさんだ。前回書いたととおり、越谷さんは出発点にあたる越谷市在住で、今回近所を歩くということで参加を快諾してくださったのである。
「なかなかそんなに長距離を歩くことはないので、もしかすると途中で脱落しちゃうかもしれませんけど」
「いえいえ、心配はご無用です」
見ると越谷さんはエンジ色のTシャツを着用されている。
「それはもしや……」
「はい。今回のウォークでは母校の春日部共栄高校の近くを歩くと聞いていますので、一応共栄カラーのエンジで来てみました。実際には、日光街道から共栄高校まではちょっと距離があるんですけどね」
春日部共栄高校が有名になったのはTVアニメ「らき☆すた」の高校のモデルになったからだ。原作者美水かがみの母校でもある。そして春日部を舞台にした作品といえば、臼井儀人『クレヨンしんちゃん』という大ヒット作もある。
「まあ、このウォークは日光街道踏破が目的であって聖地巡礼の旅ではありませんが、途中にそれがらみの場所があれば立ち止まって見学するのもやぶさかではないという立場であります」
「なるほど」
などと雑談しつつ、地図を片手に本日の行程の相談をする。7時半近くなって、通勤や通学のお客さんも駅構内に増えてきた。
越ヶ谷~杉戸18.0kmのウォーク、そろそろ出発しますか。
■北関東ヤンキー文化とついに遭遇
前回は栃木市に急行しなければならない事情もあったので越谷駅でゴールにしたが、越ヶ谷宿は本来、越ヶ谷と大沢の二箇所に中心地があった。手前側の越ヶ谷に商業地域があり、東武伊勢崎線の越谷駅と北越谷駅の中間にある大沢付近に本陣と脇本陣があった。越谷駅を東側に出て300メートルほどいったところで道が日光街道と交差する。そこから北上していくのだが、道筋にかつての街道の面影はほとんどない。明治時代の二度に渡る大火のために、元の街並みはほとんど消失してしまったのだという。
「それでも僕が小学生のころはまだ旧い家が残っていましたけど、ほとんどもう建て替えになってしまいましたね」
と越谷さん。「明詩社書店」という素敵な名前の本屋さんの前を通る。朝が早いのでシャッターは下りていたが、後で調べたところ元気に営業中であるとわかった。
「美しい名前のお店ですねえ」
その先の交差点を渡ったところにあるのが小泉家、元は呉服店を営んでいたという旧家である。通称を塗師屋というのは、かつて漆を商っていたということに由来する。家の前には石製の用水桶がでん、と置かれていて「小泉」の名が刻んである。隣家との間に立派なうだつもある。「うだつが上がらない」の「うだつ」とは、火事の延焼を防ぐために軒下に設けた設備だが、よほど立派な家でもない限りこれをつけることはなかった。「うだつが上がらない」とは、まだそこまでの分限ではない、ということである。この家のうだつは煉瓦製で、防火壁と呼んだほうがしっくりくるほど堂々としている。
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さらに行くと道を挟んで2軒の旧宅があったが、一軒はもう人が住んでいないという風情であった。商家や宿屋でもないと、こういう旧い家を使い続けるのは難しいのかもしれない。越谷駅の南西方向には日本最大級のショッピングセンターである越谷レイクタウンがある(JR武蔵野線の駅名にもなっている)。そちらに越谷市民の関心が向いてしまい、駅前の再開発は後回しになっている面もあるのだという。
「お、なんでしょう、あれは」
「ついに出てしまいましたね。北関東特有のヤンキー文化が……」
信号のある交差点にスナックが建っていた。看板に「Pub美豚」とある。
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「これはやはり」
ヴィトン、と読むのであった。咄嗟に連想してしまったのは、その昔ダンプ松本が大森ゆかりと結成した音楽ユニットPINK TONTONであった。おつまみには赤いウィンナーが出るのであろうか。
「マジだぜ!」
「何言ってるんですか杉江さん」
越谷さんは、ダンプ松本のたこ焼きラーメンのファンではなかったらしい。
「んー、ここを右に曲がるといいみたいね」と冷静な香山さん。
ちょっと道を逸れて、ご当地の神社にお参りしようとしているのであった。
■久伊豆神社はちょっといいところ
このあたりは元荒川の流れがとぐろを巻くようにうねっている。1660年に開削された葛西用水がそれと交錯しているのだが、元荒川の下を人工的に通されているのは今も昔も同じだ。川の下を流れる川ということで、この用水を通称逆川と呼ぶ。
逆川を過ぎ、元荒川沿いに少し行ったところにあるのが久伊豆神社である。前回草加から越谷への道中に末社があったことをご記憶の読者がいるかもしれないが、その本社がここなのだ。大国主命と事代主命の蓋柱を祭神とする神社で、平安時代中期に創建されたといわれている。川沿いに見える鳥居をくぐると、綺麗に石が敷かれた参道がはるか向こうまで続いているのが見えるのである。あまりに奥が深いので、香山さんに立ってもらって写真を撮ってみた。本殿はうっそうとした森の奥で、左側は保護林の植物園になっているようだ。
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「これだけ長い参道というのは珍しいのう」と香山さん。「三島大社も相当奥が深かったけど、参道が長かったわけではないしね」
「清潔に整備されているし、気持ちがいいですね。これはすごくいい神社です」
「地元民がここに来るのは一年に一回の初詣のときぐらいなんですけど、車で来ちゃうので参道をこうやって全部歩くことはほとんどないですね」
「車はどこに停められるんですか」
「あっちの奥に」と参道の右側を越谷さんが指差す。「中学校があって、そこの校庭がお正月だけ駐車場として開放されるんです」
「ほう」
「けっこう満員になるので、うっかりして砂場に車を落っことしちゃうやつが毎年出ますよ」
そうした喧騒はどこ吹く風、と静かな参道であった。もっとも午前8時をまわったばかりなのだから当然である。歩いていると、この道を通っていく勤め人もいる。生活道路にもなっている参道なのだ。
伊勢神社の廃材を譲り受けて建てたという鳥居を過ぎると、すぐ左側に見えるのが藤棚で、春になるとここで祭礼が行われる。池のほとりに藤の花が咲き乱れるさまは、さぞかし美麗であろう。また、藤棚の手前には国学者・平田篤胤が仮の庵を結んだという松声庵跡の碑が建てられている。篤胤は江戸国学四大人の一人であるが、妖異や不思議な出来事に興味を惹かれた人であるらしく、神仙界を訪れたと自称する霊能者・寅吉のインタビュー集『仙境異聞』や、生まれ変わりの記憶を持っている少年を取材した『勝五郎再生記聞』などの著書がある。怪談専門誌「幽」に書評を連載している身としては、敬っておかなければならない先輩の一人だ。
本殿の前にさしかかると、朝のお勤めか、神職たちが一斉に祝詞を上げ始めた。
「なんだか歓迎されているようですね」「うむ」とゲスト二人。
ふと見ると、社殿の前に狛犬がいる。
「家出をしたり、悪いところへの出入りが止まらない者が家族にいたら、この狛犬の足を結ぶと御利益があるそうです。そういう人はいませんか」
「幸いにして」
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■越谷オサム、早くも街道ウォークの真髄を知る
元の道に戻ってまた北上を開始した。北越谷駅の手前あたりにあるのが、大沢の香取神社である。もともとの創建は15世紀と言われているが、17世紀に現在の場所に移された。敷地に入って本殿の背後、奥殿が見学のお目当てである。
「ほほう」
「これはまた……」
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見上げると、建物の三面に見事な彫刻が施してある。七福神や、無数の匠たちが立ち働く姿が活写されているのだ。これは1866(慶應2)年に建造されたもので、浅草山谷町の長谷川竹次郎が作者である。向かっていちばん奥、北面に彫られているのは紺屋職人が作業をするさまで、竹次郎の近所に多く住んでいたであろう職人の風俗を如実に写したものとしてたいへんに貴重なものだ。境内にはまた縁結びの木もあり、そっち方面の御利益を願う参拝客にも人気のようである。せっかくなので香山さんに、ご神木と記念撮影をしていただいた。
香山さんに良縁が降ってくるように祈りながらパチリ。この香取神社では恋愛成就や開運などのおみくじ、お守りを各種取り揃えているので近所を通りかかったらどうぞ。
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北越谷駅の向こうで東武線の高架をくぐる。しばらく行くと道の左側が突如として切り開かれた感じになる。そのはるか奥は鬱蒼とした森のようになっており、手前には立派な木製の門がある。実はこれ、宮内庁埼玉鴨場なのである。敷地面積は約11万7千平方メートル、その中心に約1万24平方メートルの鴨池がある。1908(明治41)年開設で、皇室・華族の方々が鴨猟をされるための施設なのである。もっとも捕まえた個体は学術研究のために標識をつけて放すのだそうで、鴨鍋にするわけではない。もっと以前、江戸時代には幕府による鷹猟が行われていた。
例のアンチョコ、大高利一郎『日光街道をあるく』(創英社/三省堂書店)によれば、街道はここからちょっとした難所に差し掛かる。「ここより、3キロメートル先の国道4号線と合流するまで歩道が無いので、歩行には十分注意してほしい」と書いてあるのだ。十分注意して歩き始めたが、
「歩道がないとはいえ、路幅が十分あるからそんなに歩きづらくはないですね」
「そうですね。東海道ではもっと剣呑な道を歩きましたよ」
「杉江がこんな道は大嫌いだと言ってべそをかいた原宿近辺とかね」
「いや、香山さん、べそをかいてはいないですよ! 二度と歩きたくない道の筆頭候補ではありますが(詳しくは幻冬舎文庫刊『東海道でしょう!』参照である)」
やがて道のところどころに、だるま製造販売の看板が見え始めた。
「このへんはだるまが名物なんです」と地元の越谷さん。「昔はもっと店や工場が多くて、少し歩くとすぐだるま、だったんですけどだいぶ減りましたね」
ここで作られただるまは関東各地の祭礼などに出荷されているらしい。シーズンになると敷地いっぱいにだるまが並べられて壮観だというが、残念ながらこのときは静かなものであった。歩いているうちに、とある工場の玄関先に大きなだるまが据えられているのを目撃した。
国道4号線に復帰して少しすると、街道は東武鉄道せんげん台駅のそばを過ぎる。日本橋から30キロメートルの標識があったので、すかさず記念撮影である。あと110キロメートル。
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その先にあるのが新方川、通称千間堀である。せんげん台の名はここから採られているのだという。それを渡れば越谷市とお別れで、埼玉県3つ目の市である春日部市に入る。そのとば口付近に「草加せんべい」の看板を出している店があった。おそらくここが草加せんべいの北限だろう。
さあ、ここからがたいへんなのであった。
まっすぐ。
ひたすらまっすぐ。
国道4号線に沿ってただひたすらまっすぐ歩くのみだ。
「街道歩きのいちばん辛い時間はこれなんですよね。峠越えでも山歩きでもなく」
「退屈してもひたすら歩くしかないからねー」
雑談をして気を紛らわせようにも話題はそんなにあるわけでもないので、そのうちに沈黙が訪れる。それでも歩く以外にすることがないのである。
もう限界、と叫びたくなったところでようやく一息つける場所に出た。
「じゃーん」
「おっ」
「これは」
道の右側に石碑が一つ。備後の一里塚跡である。
「そうか、これが備後の一里塚跡なのかー」
「一里塚跡ですねえ」
別にそんなに感じ入って拝見することもない単なる石柱なのだが、なにしろ退屈な一本道をはるばる歩いてきた後だから感慨もひとしおなのだ。
撮影者を交替して、ついつい何枚も記念撮影をしてしまった。
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■紙切り芸人林家正楽
この当たりは東武鉄道でいうと一ノ割の駅前ということになる。
「えー、ここはですね。紙切り芸人として有名な先代の林家正楽さんのご実家があった付近なのです」
「ほう」
「へー」
演芸ファンではないのかお二人の反応は鈍いが、二代目紙切りの林家正楽といえばたいへんなものなのである。一枚の紙からハサミ一つで藤娘や忠臣蔵の一場面などを切り出す芸、といえばご存じの方も多いだろう。二代目は1998年に亡くなって、今は元の名を一楽といった弟子が三代目を継いでいる。二代目の次男も紙切り芸人で、こちらは二楽。長男は桂小南(故人)に弟子入りして、桂小南治という真打の落語家になっている。
その二代目の正楽は浅草・稲荷町に住んでいた林家正蔵(先代。彦六に名を変えた後に没)に弟子入りして最初正作の名前を貰ったのだが、なかなか春日部訛りが抜けないため落語家の途を諦め、初代の紙切り正楽に弟子入りした。
当時の逸話に、前座のころの正作が師匠・正蔵に「師匠!あしたから田植がありますので寄席を休ませてください」と言って「馬鹿野郎。噺家が田植なんかしちゃいけねえ」と叱られた、というしくじり話がある。芸人をやりながら農家も続けていた、という楽屋の笑い話なのだが、正楽の著書『正蔵師匠と私』(一声社)によれば真相は違っているという。当時の正作は仕事もあまりもらえず貧乏だったが、春日部から毎日稲荷町の正蔵宅まで通っていた。そのうちに汚いなりをして表を歩いているというのが評判になり、家族から、頼むから人出の多い田植の時期には外に出ないでくれ、と言われたのだそうである。
正楽には前に書いたように後の小南治と二楽という二人の子供があった。だが小南治が中学三年、二楽が小学校三年のときに正楽の父親が亡くなり、次いで正楽のおかみさんまでが急死する。さらにその二年後には正楽の母親まで死去し、三世代六人が住んでいた家の中には父と子、男ばかりが三人ぽつんと暮らすという淋しい事態になってしまうのである。正楽は芸人を続けながら、二人の子供を育てていった。小南治・文、二楽・画の共著『父ちゃんは二代目紙切り正楽』(うなぎ書房)にそのころのことがこう書かれている。
――畑の真ん中に建てた新居の六畳の居間に、男三人が所在なく集まると、父(正楽)はよく、
「人に聞かれたら、合宿生活みたいで面白いですって、そう答えるんだよォ」
といってましたが、さすがに弱気になったんでしょう。
「こんな家に生まれなければよかったと思うでしょう」
と漏らしたことがありました。
「そんなことはないよ」
と私(小南治)がいうと、
「そう……。だったらいいけどォ」
と笑顔を見せましたが、寂しげでした。
というようなことを同行のお二人に喋りながらさらに歩いて行くと(道は相変わらず懲りもせずまっすぐなのである)、前方にあるものが見えてきた。
野原、という表札を出したお宅である。念のいったことに、街路灯にも「野原」と表示がしてある。
「これを、『クレヨンしんちゃん』関連の名所第一号と認定しましょう」
「いやいやいや。野原といっても別にひろしの家ではないでしょう」
「まあ、春日部といえば野原一家ということで」
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■春日部宿に入る
そのあたりで道はようやく魔のまっすぐ4号線から外れ、日光街道第4の宿である粕壁(江戸時代の宿場としての表記はこうである)に入った。
「いやあ、ときどき歩きながら頭が朦朧としてしまいました」と越谷さん。
ああ、それは無理もないです。
いかにも元は宿場であったろう、という道幅になってすぐのところに東陽寺がある。ここは「奥の細道行」で松尾芭蕉が宿泊した「かもしれない」寺である。というのも、芭蕉自身の道中記には粕壁宿についての記述がないが、同行した弟子の河合曾良が「カスカベニ泊ル」と書き残しているからだ。この師弟、草加宿で見たとおり時折気が合わないのである。とりあえず「傳芭蕉宿泊」の石碑だけ写真に収める。
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その先で道を左に入ったところに春日部市郷土資料館がある。石器時代から現代に至るまでの歴史や文化に関する展示が無料で観られる場所で、かつての宿場町の様子がジオラマで再現されている。春日部ゆかりの文人が大勢紹介されているのも私のようなファンには嬉しいところで、かつて俳人の加藤楸邨(旧制粕壁中学校、現在の県立春日部高校に国語教師として赴任)の特別展示をしたこともあるという。作家・森村桂の父親で、自身も作家である豊田三郎も春日部の出身だ。
しかし、春日部市を代表する作家といえば三上於菟吉だろう。映画化もされた代表作『雪之丞変化』(講談社文庫他)で有名だが、ゾラやデュマなどの海外小説を日本版に翻案した作品で世に出て、それまでの講談調とは一線を画したロマン・ノヴェルの書き手として名を馳せた。1928(昭和3)年に単行本を刊行した『百萬両秘聞』(土屋書店)は、春日部市に合併されたかつての庄和町付近を主舞台の一つにした活劇小説で、由比正雪が隠した秘宝を巡る物語である。
ちなみに、三上の生涯にわたるパートナーだった劇作家の長谷川時雨は東京・日本橋区の生まれで、自伝随筆『旧聞日本橋』(岩波文庫)の著書がある。江戸を起点にする街道はすべてこの日本橋から出発しているわけで、こちらも街道ウォークには縁の深い人物である。
係の方にお願いし、館内で写真を撮らせていただいた。
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■人生初の山田うどん
再び街道に戻り、創業1894(明治27)年という江戸助さんでこのあたりの銘菓である塩あんびんを食べる。見かけは普通の大福だが、砂糖をまったく使わず塩で餡に味をつけているもので、汗をかく街道歩きにはもってこいの食べ物だ。
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われわれはこれで粕壁宿を後にしてしまったが、宿場のある通りをまっすぐ行ったところに春日部八幡神社がある。鎌倉時代にこの地を統治していた春日部氏の居館があった場所だというので、もし体力と時間に余裕があれば行ってみたかったところである。われわれはまっすぐ行かずに右に曲がり、次の杉戸宿を目指すことにした。
北へ歩いて行くと最初にぶつかるのが小渕一里塚跡、その先に日光道標があり、右に行けば関宿往還、左が日光街道という追分になる。石碑の正面には「青面金剛」と刻まれており、これが庚申塚を兼ねているということが判る。
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その後は再び心を無にして歩く国道4号の旅である。もう越谷さんも要領を呑み込んでいて、とぼとぼと歩いている。しばらく行ったところで埼玉県4つ目の自治体である杉戸町に入った。地図ではここから「すきすきすぎーと36」という歩道が延びていると書いてあるのだが……。
「別に普通の道ですね」
「なんか、遊歩道みたいのがあるのかと思ったんですけど、歩道に杭が打ってあるだけという」
その代わりに、なぜか巨大な石製の地球儀が設置してあった。表面にはいくつかの都市名、地名が記してあるのだが、それがみな北緯36度ちょうどの位置にあるのだという。
チンタオ、ナッシュビル、ラスベガス、テヘラン、そして杉戸町だ。
「大きく出ましたね、杉戸町」
「ジブラルタル海峡もグランドキャニオンも地中海、カラコルム山脈も北緯36度だそうだ」
「それは鯖の読みすぎじゃないか杉戸町」
「あ、そうか『すきすきすぎーと36』の36は北緯のことなのか」
地球儀の向こうには路肩の駐車場があり、今どき珍しいほどに正統派の定食屋と、ザ・中華というしかない中華料理屋が並んでいた。どうやらタクシーやトラック運転手の御用達であるらしく、店内は賑わっている。
「うん、この正しい定食屋でさっきの大言壮語は許すよ、杉戸町」
うなずきながら行くと、道の左側に巨大なかかし看板が見えてきた。間違いない。あれこそは埼玉人のソウルフードと言われる、山田うどんであろう。
「もともと越谷さんも、僕が冗談でtwitterで『越谷駅に着いたら越谷オサムさんがおにぎりを持って待っていてくれるに違いない』って書いたら、本当に「埼玉県民のソウルフード、山田うどんをご馳走しましょう」って言って返信してきてくれたせいで、こんな酔狂な歩き旅につき合わされちゃうことになったんですよね」
「せっかくですから、行ってみますか、山田うどん。基本的にロードサイドにしかないチェーンですから、この先発見できるかどうかわかりませんし」
「行きましょう。実は僕、山田うどん入ったことがないんです」
時刻はすでに午後二時近くなっており、さっき塩あんびんを食べただけの一行はかなり腹を空かしていた。今回のゴールは杉戸宿の最寄り駅である東武動物公園駅なのだが、その周辺で空いているレストランがあるかどうかはわからないのである。ならばここは、山田が正解であろう。
人生初の山田うどんは、実に食べごたえがあった。私は、普通のうどんにアジフライとコロッケと中盛りの飯がついているという、普段であればカロリーを計算しただけでも恐ろしくなる定食をとったのだが、平気でぺろっといけてしまった。しかしこれを毎日食べ続けるのは無茶であろう。
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■昭和の情景が残っている街
山田うどんを過ぎると、いやすでに山田うどんを一種の名所名跡のように書いているが、そこを過ぎると国道4号線は西へカーブしていく。そのへんで日本橋から40キロメートルの標識があった。よし、あと100キロだ。
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堤根という信号で国道4号線から左にそれ、そこからは杉戸の市街地に入っていく。特にこれといって史跡があるわけでもないのだが、宿場時代を思わせるような家や、何より昭和の遺跡のような建物がそのまま保存されているのが好ましい。
「わっ、あの農協の建物、上にタワーが残ってます」
と、越谷さん。見ればたしかに「貯金は農協に」と書かれた、球状の構造体が載っているのであった。
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店頭にゲーム機が置かれている書店があり(近寄って確かめたが、さすがに現役ではないようだった)、すでに営業はしていないようだが「レコード」の表記がある店まであった。それらを見ながら夢のような気分で歩く。風情のある銭湯が2軒もある。
「この銭湯は入りたかったよね」
と香山さん。時刻は3時ちょい過ぎといったところなので、まだ銭湯の営業には早いのである。
たしかに残念である。それぐらい魅力的な面構えの銭湯なのだった。もしかするといつか、この銭湯に入るためだけに杉戸に来てしまうかもしれない。
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「明治天皇御小休所跡」の石碑で日光街道に別れを告げ、道を左折する。すぐに東武動物公園駅である。歩数計を確かめると32000歩、約21キロメートルを歩いたことがわかった。
おつかれさま、と言い合って駅近くのドトールで渇を癒した。さすがに三人とも体力の限界である。
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「いやー、自宅の近所を歩いただけなのに、不思議と旅行に来たような気分になっています」
よくこんな酔狂な企画に最後まで付き合ってくださったものである。感謝しつつ、おそるおそる聞いてみた。
「次回もまた、来てくれるかな?」
苦笑いしながら越谷さんは、
「いやー、さすがに止めておきます」
と言ったのであった。放送も終了したことだし、さすがに「いいともー」とはいかないか。しかし、それでも街道の旅は続くのである。
(つづく)

※次回ウォークは6月30日(月)杉戸~栗橋宿の予定。レポートもお楽しみに。
※7月1日(火)のレポTVで、先日栃木市で行われたえのきどいちろう×瀬高哲雄×杉江松恋のトークの模様が放送されます。こちらもぜひご覧ください。